LOGIN辺境の朝は、ほんの少し賑やかになっただけで、まるで別の土地のように見える。
井戸の滑車が軽く回る。 荷捌き場では板を踏む足音が重なる。 鍛冶場の槌音が、昨日よりわずかに早い。 そして、中継小屋へ向かう荷車の車輪が、今度は泥ではなく、踏み固められ始めた土の上をきしむ。 レティシア・エーヴェルシュタインは、砦の回廊からその音を聞いていた。 大きな改革をしたわけではない。 城を建てたわけでも、金山を丸ごと掘り返したわけでもない。 それでも、人の動きが少し変わるだけで、領地の空気そのものが変わる。「お嬢様」 マルタが静かに声をかける。「本日は、町の者たちが何人か、お目通りを願っております」「町の者?」「はい。荷車屋のヨハン、流民組のガレス、それから豆売りの女主人、蹄鉄屋の主人も」 レティシアは少しだけ目を細めた。<借金の聞き取りは、思っていたよりも静かに始まった。 誰も、自分から大声で名乗り出たりはしない。 それは当然だった。 借金というものは、銅貨の枚数よりも先に、人の喉を塞ぐ。 足りなかったこと。 借りたこと。 返せなかったこと。 家族に言えなかったこと。 誰かに見下されるかもしれないこと。 そういうものが絡まって、人は黙る。 だからレティシア・エーヴェルシュタインは、朝一番に帳場の前へ人を集めたりはしなかった。 かわりに、聞き取りの場を三つに分けた。 帳場では、正式記録が必要な者。 炊事場の奥では、女たちが話しやすい場。 北口中継場の脇では、荷運びや若い働き手がガレスに話せる場。 どれも扉は閉めない。 けれど、外から声が丸聞こえにならない距離を取った。 隠すためではない。 話せるようにするためだ。 豆売りの女主人は、炊事場の隅で腕を組んでいた。「借金してる奴は前に出ろ、なんて言ったら誰も来ないよ」「ええ」 レティシアは頷く。「だから、“困った時に誰から借りたか”を聞くところから始めるわ」「それでも渋るね」「でしょうね」「でもまあ、薬代、葬式、壊れた鍋、子供の靴。その辺を聞けば、ぽつぽつ出るさ」 豆売りの女主人は、いつもの調子で言った。 荒っぽく、遠慮がない。 だが、その声は不思議と人を逃げ場へ追い込まない。 彼女は人の恥を笑わない。 怒る時は怒るが、困っていることそのものを責めたりはしない。 それが町の者にもわかっているのだろう。 最初に来たのは、パン屋の娘だった。 彼女は帳場では
ニコという若い荷運びは、膝をついたまま動かなかった。 夜の帳場裏は冷えている。 昼間なら人の声と荷の音で満ちている場所も、夜になると、木の軋みや火の爆ぜる音が妙にはっきり聞こえた。 証拠棚の前には、封印札の貼られた空箱が置かれている。 香木の残り香をまとった、空っぽの箱。 白蔦会が送りつけてきた脅し。 そして今、その箱へ手を伸ばそうとした若者が、床にうずくまっている。 レティシア・エーヴェルシュタインは、外套の前を軽く押さえながら、彼を見下ろしていた。「母が借金をしているのね」 ニコは答えなかった。 だが、沈黙の仕方でわかる。 否定できない沈黙だった。 ディルク・ヴァルゼンが低く問う。「誰に借りた」 ニコの肩が跳ねた。「……知らない」「知らない相手に、証拠棚の封印を剥がせと言われたのか」「違う。いや……その、名前は知らないんです」 声が震えている。 ガレスは少し離れた場所で、ひどく苦い顔をしていた。 捕まえた側だ。 けれど、ニコは同じ荷運び組の若者でもある。昼間は一緒に石を運び、豆袋を持ち上げ、時には同じ汁物をすすっていた相手だ。 怒りだけで済む話ではない。「ニコ」 ガレスが声をかけた。「お前、なんで俺に言わなかった」 ニコは顔を上げない。「言えるわけないだろ」「なんでだよ」「母さんの薬代だ。俺がどうにかするしかないって……」「どうにかするって、封印剥がすことかよ」「わかってる!」
差出人不明の空箱が届いた翌朝、町には薄い不安が漂っていた。 誰かが大声で騒いだわけではない。 泣き出す者がいたわけでも、荷が止まったわけでもない。 井戸はいつも通り回った。 炊事場からは湯気が上がった。 北口中継場では、豆袋につける札の形を間違えないよう、ガレスが若い荷運びたちへ何度も説明していた。 それでも、人の視線は時折、帳場の方へ流れる。 白蔦会。 その名を、町の者全員が正確に知っているわけではない。 だが、差出人のない空箱が届いたこと、箱に香木の匂いが残っていたこと、そしてその箱がすぐ帳場へ運び込まれたことは、もう広まっていた。 不気味な荷だった。 中身がないからこそ、かえって怖い。 レティシア・エーヴェルシュタインは、その空気を帳場の窓越しに感じていた。 机の上には、例の空箱が置かれている。 すでに布で包み直され、箱底の傷の位置も写し取られていた。香木の残り香を逃がさないよう、ルイスが乾いた薄布を別に用意している。 ルイスは、朝から何度もその箱を見ていた。「気になりますか」 レティシアが声をかけると、彼は少し恥じたように顔を上げた。「はい。中身がないのに、こんなに重く感じる箱は初めてです」「そうね」「何も入っていないのに」「何も入っていないことに意味があるのでしょう」 ルイスは小さく息を呑んだ。 空箱は、ただ空なのではない。 “こちらは見ている”という脅し。 “証拠を持っていると思うな”という挑発。 あるいは、“箱を扱う者の側にまだ手が届く”という示威。 どれにせよ、隠せば不安は濃くなる。 だからレティ
王都外れの療養院は、静かな場所だった。 静かすぎる、とカイルは思った。 王都の中心から馬車で半刻ほど離れただけで、通りの音は薄くなり、石畳も古びる。貴族街の整えられた庭園とは違い、このあたりの木々は枝を伸ばすままに任され、壁際には冬を越した枯れ草がまだ残っていた。 療養院は、古い修道院を改装した建物だという。 白い壁はところどころ剥がれ、尖った屋根の下には小さな鐘が吊られている。かつては祈りの音を響かせていたのだろうが、今は風が吹いた時に、かすかに揺れるだけだった。 カイルは、王立書庫の下級調査員という名目で門を通された。 もちろん本当の身分は出していない。 第二王子ルシアンの近習であることも、この場では伏せている。 受付にいた年配の女は、カイルの差し出した書庫印を見るなり、少し困った顔をした。「記録確認、でございますか」「はい。三年前の療養者名簿と、外部支援記録の照合です」 嘘ではない。 ただし、本当に見たいのは名簿ではなく、一人の男だった。「ベルナール・ロック様についても確認が必要です」 その名を出した瞬間、女の目がわずかに揺れた。「ベルナール様は……ご体調が優れませんので」「面会ではありません。療養記録の確認です。必要なら、ご本人には短くお尋ねします」「ですが、あの方はヴァイスナー家より……」 そこまで言って、女は口を閉じた。 カイルは穏やかに微笑んだ。「王立書庫は、療養院の運営に干渉するために来たわけではありません。ただ、記録上の齟齬を確認したいだけです」 最近、何度も聞いた言い回しだった。 ルシアンが辺境に送った書簡にも、似たような文があった。 干渉ではない。
王立書庫の奥は、昼でも少し冷えている。 厚い石壁が外の陽気を遮り、棚に詰められた古い記録の匂いが、空気の底に沈んでいる。王城の廊下では貴族たちの靴音が響き、庭園では花が整えられ、王都は今日も何事もないような顔をしている。 だが、この書庫の奥だけは違った。 紙が、静かに過去を起こし始めていた。 第二王子ルシアンは、机の上に並んだ三つの名を見下ろしていた。 ベルナール・ロック。 ランベール香房に出入りしていた香料仲介人ベルナール。 商務院の外部筆耕係として登録されたベルナール某。 どれも同じ名を持つ。 だが、同じ人間とは限らない。 近習のカイルが、腕を組んで唸った。「三人とも怪しい、というより……三人とも少しずつ怪しいですね」「そうだな」 ルシアンは淡々と答える。「こういう時、一番面倒なのは“全員が無関係ではない”場合だ」「一人を追えば済む話ではないと」「そういうことだ」 書庫番長エルザが、横から別の帳簿を差し出した。「こちら、ランベール香房の出入り記録です。ベルナールという名の香料仲介人は、三年前に数度出入りしています。ただし、支払い記録は本人名ではなく、紹介者経由になっています」「紹介者は?」「白蔦会、とは書かれておりません。ただ、紹介印に蔦の意匠がございます」 カイルが顔をしかめる。「また蔦ですか」「蔦そのものは珍しくありません。問題は、その蔦がどこの蔦かです」 エルザは老眼鏡を直しながら、静かに言った。 ルシアンは頷く。「香木二箱の線は、その香料仲介人に繋がる可能性がある」「はい」
王都へ送る追加の書簡が整った翌朝、辺境の空は薄く曇っていた。 雨が降るほどではない。 けれど、北の山から降りてくる風に湿り気が混じり、町の者たちは誰に言われるでもなく、荷に布をかける手を少し早めていた。 そういう小さな反応が、最近のレティシアにはよく見えるようになっていた。 以前なら、雨が降ってから慌てた。 ぬかるみができてから困った。 火が消えそうになってから薪を探した。 今は違う。 降りそうだから布をかける。 ぬかるむ前に灰を寄せる。 火が弱る前に薪を乾かす。 それだけのことだ。 だが、その“それだけ”ができるようになるまで、この土地はずいぶん長く痩せていたのだろう。 レティシア・エーヴェルシュタインは、帳場の窓から北口中継場を見下ろしていた。 そこでは、朝から豆の袋が並べられている。 王都の貴族が見れば、ただの豆袋だ。 だがこの町では、今や鉱石の箱と同じくらい丁寧に扱われていた。 豆売りの女主人が、腰に手を当てて声を張る。「その袋は外行きじゃないよ。町内優先札がついてるだろ!」 荷運びの若者が慌てて袋を置き直す。「すみません!」「謝るより札を見な。札は飾りじゃないんだからね」 ヨハンが荷車の横で笑った。「豆札の見間違いで叱られる日が来るとはな」 ガレスが真面目な顔で返す。「笑うなよ。これ間違えたら、昼の汁物が薄くなる」「それは困る」「困るだろ」 二人のやり取りに、周囲から小さな笑いが起きる。 レティシアはその様子を見ながら、少しだけ口元を緩めた。 豆の町内優先制度は、まだ始まったばかりだ。







